大判例

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東京高等裁判所 昭和39年(う)1197号 判決

被告人 広部刀志

〔抄 録〕

検察官の控訴の趣意は、原判決が被告人に死刑を科さず無期懲役に処したのは刑の量定が軽きに失するというのである。

そこで、一件記録を検討して本件の情状を考えてみるのに、まず原判示第一の強盗殺人、強盗強姦の所為がその方法、態様においてきわめて凶暴かつ残忍なものであること、またその後半月余りを経たのち再び同一の方法で原判示第二の強盗致傷罪を犯し、さらにその約二週間後原判示第三の強盗の犯行に及んでついに逮捕されていることこれらの犯罪の被害者はいずれも婦女で、これに対し被告人は第一、第二の犯行に際してはあらかじめ毛布の一部を巻きつけた鉄棒を用意し計画的に強盗を実行していること、被告人がその他の窃盗を含め原判示の各所為に出たのはもつぱら遊興費などを得るためで、なんら同情すべき動機が存在しなかつたことはいずれも全く検察官所論のとおりで、特に被告人の原判示第一の犯行が被害者の遺族に対し取り返しのつかぬ打撃を与えたことはもちろん、その附近の住民の間に深刻な治安上の不安を生ぜしめたであろうことも、容易に認められるところである。そして、このような一連の犯行が、自己中心的で端的にその欲求の満足を図ろうとし、そのためには行為の正邪ないしはそれによつて他人に与える苦痛などはほとんど意に介しない被告人の危険な性格から発していることもまた明らかで、これを被告人の置かれている社会的、家庭的環境とあわせて考えてみるとき、将来において被告人を健全な社会人たらしめるためその反社会的な性格を矯正することも、決して容易なわざではないと想像されるのであつて、これらの諸点を総合して考察すれば、検察官の論旨もまたまことに理由があるように思われるのである。

しかしながら、本件の情状をさらに調査してみるのに、被告人に有利な事情として次のような諸点も見出されるのであつて、この点を考慮してみなければならない。

(一) 本件犯行のうち、被告人を死刑に処すべきかどうかについて決定的な関係をもつのは原判示第一の強盗殺人、強盗強姦の所為だといわなければならないが、そのうち特に被告人の罪責を重からしめている殺人の所為について一件記録および当審での事実の取調の結果を総合して検討してみると、被告人は初め被害者である宮本光枝の後頭部にその背後から鉄棒で一撃を加え、これによつてその場に倒れた同女からその持つていた手提袋を奪い、もと来た方向へ一〇メートル以上戻つてその手提袋の中のがま口に入つていた現金を取つてポケツトに入れたが、さらに二十五、六メートル同じ方向に歩いたところへ宮本光枝が追つてきて「何をするのよ」と言いながら被告人の着ていた作業衣の左脇下の辺を掴んだので、被告人は逃走するため前記の鉄棒で同女の頭部を続けて二回強打し、この打撃が同女の死因になつたものであることが認められる。すなわち、宮本光枝は被告人から第一撃を受けた状態ではまだ頭部に傷害を受けただけで、そのまま死の転帰をとつたものとは認められず、もしかりに同女が被告人の立ち去るままに任せていたとすれば被害はその程度に止まつたと想像されるのであるが、現場を逃走しようとする被告人から奪われた財物を取り戻そうとして約四〇メートルに近いかなりの距離を追いすがつた同女の気丈さが、かえつてこのような不幸な結果を招くこととなつたとも言えるのである。もちろん、この場合、被害者としてみれば、そのような行動に出ることは人情の自然であり、毛頭非難さるべき筋合いのものではない。しかしながら、他方被告人の側に立つてみると、その非情さはともかく、追いすがつて放さぬ被害者を何とか振切つて逃げようとする、とつさの衝動から第二段の殺人行為を犯す破目になつたことは否定しえないところで、いわば犯さないで済んだはずの殺人の犯行を犯したことになるのであつて、このことは被告人の罪責の重さを判断するについてやはりなにがしか有利に考慮に入れざるをえないところだと思われる。

(二) 次に、被告人が原判示第二から第四までの犯行によつて家庭裁判所に送致され、観護措置決定によつて少年鑑別所に収容された翌日、面会に来た母親に対して人を殺したと告げ警察への連絡を依頼したこと、さらに数日後の七月一八日に担当の教官に対し自分が弘明寺公園の殺人の犯人であると申し立て、次いで同月二〇日に家庭裁判所調査官に対してもその事実を申し出たことについて、論旨は右は被害者の亡霊にさいなまれてその恐怖から脱するための自白であり、衷心からの悔悟によるものではないと主張する。たしかに、一件記録及び当審における事実の取調の結果に現われたところから見れば、被告人が右のように原判示第一の犯行を告白するに至つたのは、日夜被害者の幻影に脅かされ、被告人のことばを借りれば「やりきれない気持」になつたためであることが認められるのであつて、その後の被告人の取調官に対する言動に徴してみても、その際の被告人の気持が心からの悔悟と呼ばれるほどのものであつたかどうかは疑わしいとしなければならない。しかしながら、それが当時としては悔悟というような崇高な道徳的感情にまで高められてはいなかつたにしても、被告人が被害者の幻影に悩まされたということ自体まさに被告人の心の奥底にある道徳的良心の一つの呼びかけにほかならないのであり、そのことは被告人の将来の改善可能性を考えるうえにおいて無視することのできない点であると考える。と同時に、原判示第一の犯行について、被告人が前記のように自分が犯人であることを申し出る以前から捜査当局が被告人にある程度嫌疑をかけていたことは窺えるけれども、それにしても被告人の告白によつて右の事実に関する捜査が急速かつ順調に進展するに至つたことは認めざるをえないところで、この点も、程度の問題はともかくとして、被告人に有利な一つの事情であることは疑いのないところである。

(三) 最後に、本件においては、被告人が犯行当時一九歳の少年であり、かつ原判決言渡の時もなお少年であつたことがやはり重視されなければならない。言うまでもなく、罪を犯した少年に対し法が特別の処遇を定めているのは、少年は一般に心身の発育が未成熟の段階にあり、そのため応報的な責任非難の度が成人に比して軽いことが多い反面、その改善の可能性(いわゆる可塑性)が高いことに着目し、保護の理念を一般の刑法の理念より優先させ、これを修正する思想に基づいているのである。したがつて、少年に対し刑罰をもつて臨む場合においても、多くの特例が設けられているのであり、特に死刑について言えば、少年法第五一条により、罪を犯すとき一八歳に満たない者に対しては、いかなる事情のもとにおいても死刑を科することは許されないとされていることに注意する必要がある。もちろん、被告人は原判示各犯行当時すでに一八歳を越えていたのであるから、右の制限規定の適用はないわけであるが、それにもかかわらず被告人に対し死刑を科すべきかどうかを検討するにあたつては、少年法の精神、特に右の第五一条の趣旨を十分考慮に入れ、行為当時の精神の発育の状況および将来の可塑性について格段の注意を払うべきであり、これを成人に対する場合と同一の基準で軽々に判断することは厳に慎しまなければならない。そして、被告人についてこれを見ると、本件各犯行の原因をなしている被告人の性格、気質がある程度精神的発達の未成熟を示すものであることは否定しえないところであり、またその性格の矯正も、初めに述べたように決して容易ではなかろうと思われるが、それにしても長い年月の努力をもつてすれば必ずしも望みがないとはいえないと判断されるのである。

かくして、問題は、冒頭に述べた被告人に不利な諸事情と右に挙げた諸点とを比較考量してみた場合に、はたして被告人に対する刑として死をもつて臨むことが妥当であるかどうかということになるわけであるが、当裁判所としては、犯罪者に対し死刑を科するについては最も慎重でなければならないことにかんがみ、検察官の主張に一面の正当性があることを十分承認しつつも、前記の諸点を考慮するとき、被告人を死刑に処するのになおかつ躊躇されるものがあるのをいかんともしがたいのである。すなわち、原判決が被告人を無期懲役に処したのは、結局において正当であると認めざるをえない。

(新関 中野 伊東)

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